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生きる意味とやめる意味

自殺論や自殺についてという古典的な名著がある。自殺論の中に紹介されている論考は非常に面白かったと思い出される。

だが、自殺といってもたくさんある。

ヘミングウェイの自殺、三島由紀夫の割腹、戦国武将の切腹、阿南大将の自決、黒澤明の自殺未遂、架空の人物であればアンナ・カレーリナの自殺などなど

有名人や歴史上の人物らも、自らの決意により、生命装置を止める、あるいは生きることをやめるということを行なっている。

上に挙げた人々の自分を殺す行為、つまり自殺の理由は様々である。だが皆考えを変えたり、現実に行きながら、考えを殺すのではなく、行動で自分の肉体を何らかの方法で、止めようとした、あるいは実際に止めたのである。

彼らの中には死なずに、殺されない立場への還俗や、先ほど述べたように、考えを変えて現実に生き続けられるように適応することや、強い意志により、それがそれまで生きていた自分を変えるという精神的な死を意味しようとも、生き延びることなどすることもできたであろう。もちろん、錯乱状態や気分の落ち込みにより、正常な考えができなかった可能性もあるが。

では、そのような精神的な死と、実際に死ぬのとはどのような違いがあるのだろう。

おそらくであるが、死というもののインパクトの違いがあると思われる。人は誰かが死ぬと、それが誰であれ強い衝撃を受けるのだ。だが、それは戦争や災害などの異常状態ではなく、社会が維持されている状態、平和で死というものが、実体験的、観念的に遠ざかった状態において死というものは、ことさら強いインパクトを他者に与える。そして、それが死ぬ必要性がない可能性があればあるほど大きな影響を及ぼすことができるのだと、考えられる。

そう、自分を殺すという行為には、個人的な生命維持をやめるのではなく、他者の反応を認識した上で、その他者の行動、意識を変えるという機能もそなえているのである。おそらく三島由紀夫の割腹がそのような意味を強く備えていると思う。

私は最近、心が痛むこと、物足りなさにより、人生が、これから生きることがとても空虚であるような気がすることがある。そのような時にふと自殺という可能性も選択肢の中から浮かんでくることがある。しかし、私が自分で死んだところで、何も変えることはないし、返って気味が悪がられるので、やってもあまり意味がない、つまり、それほど他人に与える効果がないのである。なので、選択肢の中でも現実的ではない。

おそらく、死にたいと口に出したり、頭に浮かんだりする人が実際に死なないのは、実際に自分の生命を止めたとしても、もし死なずに生きた時に得るであろう楽しみ、快楽に比べて、それほど大きな意味がないと考えられるからではないだろうか。

だが、それがあらゆる意味、高尚な意味、他人への影響を持つと思われる場合、自分の生命を止めるということが行われる可能性があるのではないだろうか。

そして、影響力がある死、例えば有名人や歴史的な人物である場合、それは歴史の一部となり、人類が文明的な言語を使う限りは永遠に時間の中に生命力を持つことができる。

三島由紀夫の死には、そのような意味が多分に含まれているとも、考えられなくもないのである。