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hiroの日常を語るブログ

心の痛み、考える心

以前ビートルズの曲を元にheartとmindの違いについて考えて書いた。

私はheartは、痛む心であり、Passiveであり、反応であり、感覚であると考えてる。対してmindは、考える心であり、positiveであり、判断である。Heartとmindは繋がってはいるが、heartの方がmindより、より深く身体の神経と近く、より意識に置くことが難しいと考えている。そしてheartとmindはしばしばその繋がりが曖昧で、相反することもあるだろう。

 

私は今心が痛い。これは失恋によるものが大きいと考えている。すでに判断上、つまりmindではほとんど解決している。もう理性的には失恋を修復することは不可能に近いとほとんどはっきり認識できている。

しかし、痛む心、heartでは解決できてないのだ。そして、不思議なことにみぞおちの上の方に何か足りないものを感じるのだ。刺々したものが刺さった、もしくは抜けた状態である。

そして、この感覚は意識化では何にもできない。

いくら判断上では解決できても、痛む心の方は解決できないのだ。実はこれほどまで意識がどうしようもない範囲で、分離状態が起きているのはほぼ経験したことがない。それに意識上は解決できているため、うつ状態のような判断上の苦しさはあまり感じていない。

何かが足りないという感覚が続いている。何をやっても満たされないのだ。まるで元からあったものが切り離されたみたいに。

 

おそらく、小さい頃母親、もしくは両親と別れた人で捨てられるような経験をした人は、同じような感覚を心に感じているのかもしれない。

それは、まあ今の私が感じている感覚よりも長く残るかもしれないし、他の母親的な人を探し、見つけることで満たされるのかもしれない。いや、その人の人生はそれを満たす方向性に進むのかもしれない。

 

私が今思うのは、この感覚、心の喪失感はおそらく判断で解決するものではないということである。だから今私にできることは、この感覚を感じながら、進み続けることだと思っている。そして、そのようにできる方向性は今見つめられている。