人は人、他人は他人
人は人、他人は他人とはよく聞くが、そういう人も大抵は会社に就職し、家庭を持ち、子供を持ち、世間一般の社会的地位を持ち、子供によい大学に行って企業に就職して…というのが当たり前だと思っているだろう。それはそれでいい。
ただそこに他人より、自分の方が上に行きたい、あいつには勝ちたい、あの人と比べれば自分なんてだめだ、自分は半端ものだと考えることによって自己と他人を比較し、苦悩を抱えてしまう。私もそうであった。いや、最近もどこかでは考えているかもしれないが、意識しないようにしている。
しかし、このように他人と競争するのではなく、自分と他人に一線を引いた生き方、または道を唱えた2人の先人がいる。
2人とも剣と禅の修行に打ち込んだ人物である。
1人は柳生石舟斎である。新陰流を創始者である上泉伊勢守から新陰流を受け継いだ兵法家である。
武道、古くは兵法と呼ばれた、の考え方は中々面白く、刀や槍、弓を持って人に打ち勝つ方法だけではなく、そこには身体感覚を通して得た経験による哲学や悟りの境地などのようなものを説くものが多い。
新陰流にも殺人刀・活人剣思想や心のあり方、転(まほろぼ)の考え方など、哲学的な考え方が多くある。
その中でも、柳生石舟斎が述べた言葉は平凡でありながら深い意味を持っている。
「昨日の我に今日は勝つべし」
武道・兵法の世界では、古来他人に打ち勝つにはどうすればいいだろうかということを史上命題として考えられてきた。
その兵法においての答えが、他人に打ち勝つ前に、過去の自分に打ち勝てというものである。
これは勝負事において様々な場をかいくぐった人やプロフェッショナルならわかるのかもしれない。
私にはまだわからない。
もう1人は勝海舟である。
「行蔵は我に存す。毀誉は人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。」
勝海舟は幕府の重臣にもあったにもかかわらず、明治になり新政府に協力していたことに関して、福澤諭吉に『痩せ我慢の説』の中で、榎本武揚と共に批判されたのだが、それに対して勝が述べた返答である。
何なのかはわからないが、勝海舟の世の捉え方、批判のかわし方に関して機知を感じる。
このような考えは禅によるものなのだろうか、わからない。
だが、何かを極める時に自分と向き合うこと、そして、自らの行いと、それに対する他人の考え、感想とはっきりと一線を引くことには学ぶものが大きくあると感じている。