勇気の花
長渕剛の2000年代初期の曲の1つに勇気の花という曲がある。
長渕のたどり着いた人生の美学、生きる方向性が表されたメッセージが詰まっている。
初期は吉田拓郎などのフォークの影響を大きく受けたスタイルであったが、徐々にロックを取り入れていき、自身の苦悩などを再現するスタイルへと変化していった。やがて自分を世間からろくでなしや非人と遠ざけられているヤクザのイメージに自身を重ね合わせていき、それに呼応したファンを作り出していった。さらには肉体改造をし、在りし日の三島由紀夫さながらの身体になり、また愛国的、憂国的なメッセージの曲も出すようになっていった。現在は丸くなったが、長渕剛は根幹こそ一貫しているようにみえるものの、非常に多変で多様な顔を持つアーティストでもあるのだ。
その長渕が自身の人生で築き上げてきた人生観を詰め込んだメッセージソングが勇気の花である。とてもポジティブで泥臭く、かつ思いやりのある良い曲である。
復活
復活というトルストイの小説がある。
トルストイ後期の名作とされている。まだ読んだことはないが、戦争と平和を読み終わったあたりに読みたいと思う。
キリストは一度死んで復活をした。その復活が奇跡とされ、信仰される1つの理由となっている。
本当に人は一度死んでも復活できるだろうか。
できる。
しかし、肉体の復活は不可能である。なぜなら物質だからだ。だが、信仰、愛、心といったものは肉体が生きている限り、復活することができる。
有限性のあるもの、お金、思い出の品、家、故郷、祖国、家族、友人、恋人、名誉、地位、ペット、その他諸々、それらをもし失ったとしても、かならず再起できる。
一時的に死んだように見えたとしても、生きている限り必ず復活することができるのだ。
それが初期のキリスト教の伝えたかったメッセージの1つではなかろうか。
ビートルズの曲の良さ
ザ・ビートルズというバンドがあった。バンド名を法人のように考えれば、今もある。
イギリスで誕生した、4人組の音楽バンドである。結成当初はロックンロールというジャンルの音楽をしていた。活動中期から後期にかけては、様々な音楽を吸収し、ロック音楽や、ポピュラー音楽といったジャンルの確立に大きく貢献し、世界の音楽家に大きな影響を与えた。また数多くの有名な楽曲を残している。
ビートルズの良さとは何であろうか?
率直にいうと、よいのである。さらにいうと曲がよい。
よい、という言葉はそれ以上定義は難しいので省くが、単語それ自体としては非常に中立なものであると思う。つまり、〜がいいというような形容から自由であるという意味である。
本当によいものはよいものであるのだろう。
そのようにある意味様々な人から普遍的に捉えられるものというのがよいものであるのだと思う。
自分のやりたいことについて
自分のやりたいことは〜である。または何であろうか。
世の人はこのようなことを一度は自分に問うてみたことがあると思う。
また世の中には、このような答えが見つからないという意見もあるし、反対に見つかったという意見もあると聞く。
まるでコインの裏と表のように反対の意見が世の中には溢れているのだ。
私も何度もこの問いを自分に投げかけてみたことがある。その都度答えたり、答えきれなかったりした。そして、現在この問いに答えたように自分がなっているか、というとそうでもない。
多くの人にこのような経験はあるのではないだろうか。そして、答えがなかったり、この問い自体に意味がないと考えたりする意見もあるだろう。
実際私もそう思ったりした。
では、自分のやりたいことは〜であるという答えにはどのような意味があるのだろうか。
おそらく、それは禅の公案のようなものであると思う。
有名な白隠の公案、隻手の音を聞け、にあるように、正直いって、このような問は答えを簡単に出せる問題ではないだろう。
これと同じで、自分のやりたいことに関して答えというのは簡単に出るかもしれないし、出ないかもしれない。
しかし、それとは関係なく、時は過ぎるのである。
そして、ある時に自分のやりたいことはこれである、という答えが出るかもしれない。
時間がかかるかもしれないが、そのようにして得られた答えというのは、ある意味悟りのようなものであり、人生を生きてきた証であるかもしれない。
語学における右脳の重要性
ある研究によれば、5歳以前に学ばない限り、ネイティブと同じ言語能力を持つことは難しいと言われる。またある人は語学には才能が必要だという。
この二つの命題が示すところによると、語学には、5歳以前、もしくはできるだけ早い時期に、ある言語環境に身を置くこと、もしくは先天的な能力を持っているということが必要条件であるようである。
しかしながら、このような語学学習における意見に対して、筆者は疑問を投げ掛けたいと思う。
おそらく語学を長年学んでいるにもかかわらず、コミュニケーションが下手である人は、右脳ではなく左脳で語学を学んでいる可能性がある。
英語で読み書きができても、会話が出来ない日本人と、ネイティブレベルの日本人が英語のニュースを聞いた時に生じる脳の反応を比較した興味深い実験結果がある。
ネイティブレベルの日本人は英語を日本語と違う右脳の部分で処理しているのに対し、会話ができない日本人は、英語を聞いても、日本語と同じ右脳の部分で処理しているのである。またこの時、左脳の反応は両者とも同じである。
つまり、読み書きができてもコミュニケーションができない人は、その言語のネイティブスピーカーと違う右脳の使い方をしていることがわかる。
要するに、会話能力には、右脳の特性である表現力やイメージが重要であるということである。
では言語学習において右脳を使うにはどうすればいいのだろうか?
このことを意識しながら言語を使えば、ネイティブと同レベルではなくとも、それに近い言語の使い方ができると考えられる。
アンナ・カレーニナを読んで
この本には様々な対比が使われており、それがこの物語をいっそう面白くしてくれる。
この本には3つのカップルがでてくる。
1つはアンナとヴロンスキー、2つ目はオブロンスキーとドリィ、3つ目はリョーヴィンとキチィである。
そして、アンナという人物を取り巻いて、2人の男がいる。1人が夫で政治家のカレーニン、もう1人が軍人のヴロンスキー。この2人の性格も、全く違う。カレーニンがつねにキリスト教的な精神や世間体に意識を向け、時には自分の心を犠牲にする。性格は常に冷静であろうとし、ささやかな愛情でさえも理性で濁そうとする。対して、ヴロンスキーは世間体や出世、信仰に目を向けず、自分の欲望に正直である。そして、時には高慢に映る性格をしている。
しかし、そのような性格をしている2人も結局は反対の心へと惑わされるのである。カレーニンは自分のアンナへの愛や自分への侮辱に対する感情に対し、気づかないように努めながらも、時にヒステリックになり、その愛や侮辱に非常に苦しむのである。そして最終的に新興宗教家のような人物の考えを信奉するようになってしまう。ヴロンスキーは、アンナという美しい女性を手にする代わりに、彼女の苦しみと自分の貴族社会での出世を犠牲にし、芸術活動や農業経営など新しい生活に生きようとするも、結局のところ貴族社会に未練があるようなそぶりを見せ、そしてアンナと一緒にいる生活に疑問を感じるようになる。
アンナはこの2人の中を揺れ動く。カレーニンと別れ、ヴロンスキーの元に行くも、出産の際に死にかけた際には、カレーニンと会うことを望み、その心に彼に対する罪の意識と、一瞬ではあるが愛情が蘇る。ここでアンナはカレーニンの元に戻るのであるが、ブロンスキーが自殺を図り、アンナの容体がまたよくなってくると、カレーニンに対する嫌悪の気持ちが復活し、ヴロンスキーの元へ戻るのである。この一旦のリセットがあった以降、アンナの気持ちはヴロンスキーへの愛一色になる。一命をとりとめたヴロンスキーと生活を共にするも、アンナの地持ちは満たされない。やがてアンナはヴロンスキーの中に自分に対する冷めた感情を見るようになり、彼の浮気や捨てられるのではないかと考えるようになる。アンナはモルヒネ中毒になり、現実逃避から自分の養子にしたイギリス人の女の子を溺愛するも、それさえもヴロンスキーに咎められ、またアンナも自分を偽っていることに気づくのである。
そして、ヴロンスキーでさえも、憎しみの対象としか見れなくなったアンナは最終的に死を選ぶことを決意する。あれほど美しく、精力的に華々しく輝いたアンナが今度は、この世において永遠かつ完全な静止である死を選ぶのである。そして鉄道に飛び込んだアンナは最後の最後に華々しく生命を輝かせながら、その命を散らす。だが死んでもなおアンナはその存在を完全に消すわけではない。自身の姿を生き映させた娘は、アンナの死後カレーニンに引き取られるのである。アンナはカレーニンと離れたかったにも関わらず、結局カレーニンと離婚することができなかったため、ヴロンスキーとの子供は法律上の夫であるカレーニンに引き取られることになったのだ。また作中にも描かれているが、カレーニンは血の繋がっていないアンナの娘にささやかな愛情を感じている。
アンナとヴロンスキーのカップルと対比するように、リョーヴィンとキチィというカップルの愛情の育みも本作の重要な位置を占めている。このリョーヴィンという男は、作者トルストイ自身である。アンナとこのリョーヴィンのカップルは、物語の最初と最後、そしてキチィの姉ドリィの夫であるオブロンスキーがアンナの兄であるという婚姻関係以外は両者はほとんど交わることがないのである。にもかかわらず完全なる対比という面で、両者は物語を作り上げている。
無名の名人
升田幸三という棋士がいた。大正、昭和を生き抜いた棋士である。
彼の本で勝負という本がある。その中で印象に残っている言葉がある。
「無名の名人が世の中を支えている。」
名人とは、当代きってのなんらかの芸事、能力を極めた人で、達人や上手よりさらに上の段階に到達した人を指す。織田信長が、茶器の名器のような、並外れた実力を持った碁打ちに対して使った言葉である。
将棋で言えば、名人はその時代最高峰の実力者を指す。升田幸三いわく、そのような人物がこの世の中に知られていないだけで沢山いると。事故を起こしてないタクシー運転手のように。そしてその人の仕事がこの世の中を支えているんだよと。
なるほど。深い考えであると当時思った。おそらくそうだろうと思う。多くの人に知られてないだけで、色々な人が私たちを支えてくれているんだと。
「大切なものは目に見えない。」これは星の王子様で出てきた言葉だが、やはり大切なもの、本質的なものは肉体的な目では見えないものである。升田幸三の慧眼さを感じる逸話である。