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西郷は偉大

「おれは今までに天下で恐ろしい男を二人見た。それは横井小楠と西郷南州だ。」

勝海舟は日本史上、頭脳においてはかなり傑出した人物の一人だろう。その勝が恐ろしいという人物の一人が西郷南州こと、西郷隆盛である。

氷川清話という、勝海舟がべらべらと戦国武将や幕末、明治の出来事について自身の見識を語る本の中で、西郷は特に絶賛されている。あの坂本龍馬でも器の大きさでは及ばなかったと語っている。

この西郷、何がすごいのだろうか。

私はこの度の禁欲、無反応生活から一つ気づいたことがある。

西郷は下級ではあるが武士の家に生まれたらしい。当時、藩政改革が求められている中、島津齊彬に認められて出世したのである。

この島津齊彬という男も中々の人物である。薩摩藩こと鹿児島藩の藩主であり、洋学に通じており、幕末に西洋列強の脅威を感じ、近代工業化、富国強兵政策を藩の中で推し進めた。その政策の一環として、小さな工業地帯を鹿児島に作り、写真技術、大砲、機雷、砂糖の精製、塩酸・硫酸、蒸気機関の製造、はたまた蒸気船の開発までをやってしまうという一大事業を成し遂げている。

この島津齊彬、西郷に途轍もない魅力を感じてしまう。上級武士ではない西郷に重役を任せ、西郷も期待に答える感じでメキメキと頭角を現すようになる。齊彬は、西郷を使いこなせるのは自分だけだと語っていたらしい。また西郷があまりにも短期だったため、人に何を言われても感情的に言い返すなと言っていたらしい。

やがて黒船が来航し、幕府が開国を決めた後、島津齊彬は天然痘により命を落とす。西郷はその死に際して、自らも命を断とうとしたようである。

そして齊彬の死後、鹿児島藩当主となったのは島津久光であった。この島津久光というのは齊彬の異母兄妹で、人としての器は齊彬に全く及ばない。西郷は全くそりが合わず、事あるごとに反発、「上様は田舎者でありますので」と言ってしまう始末であった。久光は西郷の態度に激怒し、西郷を島流しの刑にしてしまう。

西郷は二度の島流しに合い、二度目は奄美に流された。牢屋に閉じ込められ、風雨に吹き晒される中、骨と皮だけになったこともあったがらやがて住民たちに認められ、牢から出て自由に暮らすようになった。この時に妻を娶り、子供が生まれている。

その後、大久保利通らの懇願により、藩から許しが出て、西郷は藩政に舞い戻ることになった。以後は皆が知るように歴史の転換期に大きな活躍をし、そしてその変わりゆく歴史の流れの中で命を落とした。

その西郷の言っていた言葉で有名な言葉がある。「敬天愛人」天を敬い、人を愛す。

言わずも知れた有名な言葉だ。西郷さんの像の横にも紹介されてある。

そして、この度、やっとこの言葉の意味が体感できたのである。

それは、私が禁欲をやり始めて、卑猥な妄想をやめる、さらには過去の出来事や、他人の行動・言動に対して反応することをやめようとしていることによって気付かされた。

どんなに相手が理不尽なことを言っても、行ってもそれに対して反応しない。このことを実践してみて否応にもこの言葉がわかった。

ある出来事があったのだが、私の心は反応するのを必死に堪えた。体は感情的になろうとし、涙が出そうになったが、相手の行動に善悪判断を下したり、自分が被害を受けているなどの反応を堪えた。

一旦落ち着いて遠くの景色を見て堪えているとなんとか自然と抑えられたのである。

以前の私なら感情的になったり、相手に負けるかと執念を燃やしたり、相手の評価を自分の中で下げたり、逆に自分の至らなさを感じ、自虐的になったりした。

だが反応を堪えてみて、なんともないことがわかった。

そして、この敬天愛人という言葉の意味が半分わかったのである。

人や人の行いを自分の見識により、非難したり、判断したりするのをやめる。そうすると、人は人であり自分は自分であるという大きな心が持てる。これは人の実在を真に条件なく、認めてあげること、つまり愛するということにつながるのではないかということである。

天を敬うということに関しては、まだわからないところがある。だが、この言葉を語った西郷南州こと、西郷隆盛はやはり並大抵の人物ではないと思ったのである。