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時間について 過去の意味

曹洞宗の祖師道元の時間に関する考えは、アインシュタイン相対性理論にも通ずる考えらしい。つまり、現代物理学における時間観念と同じような認知を道元はしていたということになる。

かなり単純化すると、過去の自分、未来の自分も今の自分もみな自分であって、過去の自分にもその時の今の自分がいて、未来の自分にもその時の今の自分がいるというような考えだったと思う。過去は存在しない、今しか存在しないという考えに対し、道元は過去も今であった自分が存在していたのであり、過去がないということではないと考えたのだと私は理解している。

昨今のマインドフルネスなどの自己啓発書には、今を生きろ、過去は振り返えるな、という考えがるが、そらは今しか存在しないのであり、過去はすでに存在しないという意味ではなく、今という時間に意識を向けろという意味なのである。

だが、さらに考えてみれば、過去も今も自分は自分であり、過去は過去にあった今いる自分なのであり、等価であるとも考えられるのである。道元の場合、人間だけではなく、動物、木、山、小石までにそのような法則の中で生きていると考えているようである。

では過去とは何なのか。フランクルという心理学者は過去とは時間ゲシュタルトとして不可侵に存在するものであるとしている。この時間ゲシュタルトという概念は少し難しい。例えば音楽もこの時間ゲシュタルトとして存在するものの1つらしい。音楽は物質としては存在していないが、時間を媒介して存在している芸術とされる。さらに例えれば、以下のようになる。

あなたがひとりの恋人がいたとする。その恋人が不慮の事故により亡くなり、あなたはその恋人の存在を失ったことで、悲嘆にくれている。彼女または彼氏の肉体的な存在は現在、そして未来にはない。しかし、その人の生きていた過去というのは時間ゲシュタルトとして完全に存在していたのであり、いかなる現在、未来の出来事もその時間ゲシュタルトとしての存在を脅かすことはできない。

このことは過去に起きた出来事が完全に存在するものであるから、トラウマを逃れることができないということではない。

過去というのは今現在と同じように存在する時間であり、未来も同じく、それらは相対的な今この瞬間の認知として存在しているものであるということだと、私は考えている。

 

そこで私は考えてみた。私が子供の頃から過去にしてきた選択や行動、それは今思えば間違えたものかもしれない。だが、その選択や行動は今と同じような今に行われたものであり、今この瞬間とその私の時間への向き合い方に関しては同等のものであって、未来の今も、今と時間に向き合う私という存在としては同等のものであるということである。

よって、物事に本質的な後悔というのは存在しないのかもしれないとも思うのである。

宮本武蔵の言葉で一番印象に残っている言葉がそれである。

我、事に於いて後悔せず。