hiro

hiroの日常を語るブログ

HeartとMind

ビートルズのラバーソウルというアルバムの中に、What Goes Onという曲がある。

リンゴ・スターがボーカルの曲であるが、この曲の歌詞を見ていてハッとした。

What goes on in your heart?

What goes on in your mind?

You are treating me apart

When you treat me so unkind

What goes on in your mind?

シンプルなメッセージに、きれいに韻が踏まれた歌詞だなと思ったのだが、このHeart とmind の違いは何だ?なぜ2つを分けて続けて書いたのか?とふと思った。

Heartと mindはどちらも心と訳すことができるが、しかし、その機能に違いがあると、最近の経験から気づいた。

それはmindは判断であり、Heart は感じるという機能の違いではないかと思われる。

Mindは対象に対して批判や迎合、賛成などの判断をする機能であり、対してHeartは心の奥で思っていること、感じでいること、もっといえば身体で考えていることだと考えた。

なので、人が心を入れ替えるといった時は、mindの考え方を変えるということであり、心が洗われたという時はheartの感覚が身体的にも浄化されたということ。

おそらくheartは身体や自律神経との結びつきが強く、意識で制御するのは難しい気がする。

このように考えてしまったのである。

 

最近私は反応しないという練習をしている。対象に対して判断を下さないように心がけていた。しかし、最近起こった感情を動かされる事により、動転し判断をしてしまったのである。

おそらく人は感情を動かされることに合うと、認識の判断もそれに付随して機能させてしまう。とっさの事に動かさない人というのは感情の部分まで、心と身体が繋がる部分まで訓練できている人なのかもしれない。

 

ということを思ってみた。

禁欲の効果について

古くから禁欲は宗教、哲学により説かれてきている。

宗教、哲学という、言葉を通して一つの物語や概念を正しいと思い続けることや、抽象的な概念を吟味し判断し続けるという高度な思考と言語使用を要する人間の知的営みにおいて、禁欲は重要なものと位置づけられ、説かれ続けられてきた。

しかし、それが東西古今の社会規範において絶対的なものであり続けたか、と考えるとそうではない地域や時代もあったし、現代において民主主義国家であるなら、大抵禁欲は求められない。

ではなぜ高度な言語使用に耐えうる脳を持ちうる人間が、その思考の最たる物が必要とされる宗教や哲学で禁欲を説いたのか。 

おそらく高度な言語使用や思考の使用に、禁欲というものが必要であったからだと考えられる。

そして、私は最近再び禁欲を始めている。一つは最近になり思考が過去の概念や出来事により、現在における判断能力を奪われるように感じはじめたからである。

簡単にいうと、過去の嫌な出来事や、それから生じた不安というものに悩まされ、感情的になったり、行動ができなくなることが多くある。

そして、性の禁欲から始めることにした。

まずポルノグラフィティーを見ることをやめ、次に自慰に、そしてポルノを頭の中で考えること、さらに発展させあらゆる妄想をやめようとしている。

これがどのように私の人生に働くのかはわからない。

今現在の効果では、規則正しい寝起き、外国語学習と趣味の活発化、異性との交際への積極性に対して多少なりともあったと言える。

そして何よりと先ほど述べたように、禁欲は人間しかしない高度な知性を持つことによる行動、哲学、宗教、芸術、言語学習などに一定の効果があることが期待されると考えられる。

さらに大きく個人を超えた能力でいえば、政治、軍事、工業・商業活動にも多少なりとも影響すると考えられる。

以上が人間の歴史から考えられる禁欲の効果である。

 

 

肯定について

ザ・ビートルズジョン・レノンは前衛芸術家の個展に行った際、ある作品の中にYesという文字を見つけた。その時、自分が肯定されたようないい気持ちになったという。その前衛芸術家とはオノ・ヨーコだ。彼女を好きにならなければ、ジョン・レノンはおそらくビートルズを辞めてないし、ドラッグで亡くなったとしても銃で撃たれることは無かったろう。

言いたいこと、それは自分の存在を肯定することは、人生で最も重要なことのうちの一つだということだ。

不思議なことに最近去年別れた彼女の夢をよく見る。

夢の中では自分と前の彼女はやり直している。

でも現実の中ではやり直すことはないだろう。

もう別れて大分経ってるし、彼女との関係は感情的にこじれている。こちらからできる連絡手段ももうない。

なのに夢を見る。

夢の中の彼女は付き合ってたころのままだ。

しかし、今の彼女との関係は違う。今の自分にとって今の彼女は同じ人でありながらどこか遠い人だ。

なぜ夢を見るのか。

おそらく夢というのは潜在意識であり、我々が意識でどうにもできないもの、自律神経のような働きが関係しているものだと思う。

以前自分が意識的に反応を抑える、判断をしない機能を持つ心に対して、その意識に対して反応、判断を誘う、あるいは問う機能を持つ心に関して述べたが、そのもう一つの心が夢を誘発していると考えている。

寝ている時は意識的に反応を抑えることができないため、夢を見させられてしまうのだ。

だが夢は悪いものではない。

その内容については日頃の行いや習慣が関係しているとは思われるが。

夢を見てまた何かに気づいていけばいいと思う。

そもそも夢を見るということは何か重要な問いなのかもしれないからだ。

しかし、それに関して判断することは避けたいと思う。

フロイトの夢判断という本を読んだことがあるが、やはり夢という不確かなものに意味を持たせ、それを現実の行動にも影響させる必要はないと思っている。

夢を見た。ただそれだけの淡々とした行為として認識すればいい、と今の私は思っている。

女性関係に関して

ゲーテは女性関係に悩み、長らくピストル自殺を考えていた。チャップリンは離婚訴訟で一夜にして髪が白くなり、あのピカソでさえ、離婚問題で半年ほど作品が書けなかった。

女性関係、または恋愛関係は人の日常生活をめちゃくちゃにしてしまうことがある。

なぜなのか。

私も悩んだことがあるし、今も時々心に思い浮かぶことがある。その時に、ああしとけばよかった、今いたらこうしてあげるのに、なんであんな事をしてしまったんだろうと考えてしまうのである。

これらはみな全て過去の記憶から作られたイメージ、幻影であり、現在の意識がこれに反応してしまっているのである。

そのロジックを理解してからは、頭の中に浮かんでくる幻影に対し、反応するのをやめた。

さらに言うと今現在の感想や感情を生み出すのをやめたのである。

ではなぜ過去に対し人は、あれこれ反応してしまうのか。

この背景に、実は快楽物質が多く関係していると見ている。

人は何かにつけて対象に対し意識で反応し、判断を下す。判断を下す側に立つことにより、自己の優位性を確認する際、快楽物質ドーパミンが脳内、体内で形成される。これが反応の中見である。

そしてドーパミンは中毒症状を引き起こし、絶えずドーパミンが出ないと不安症状がでるようになる。さらにその量は増え続けないと満足できないようになる。だから、人は過去のことに長い期間悩んでしまう。それが不快な気分を引き起こすにもかかわらず。

 

そのための解決方法は、ドーパミンを断ち切ることである。何か過去の記憶が心に浮かんでもそれに対して判断を下す、感想を述べる、反応することをやめる。やめ切るのである。

このことにより、過去の記憶は快楽とは切り離され、現在に向かうことができるのである。

何が思い浮かんでも反応しないというのが解決の糸口になる。

そして反応するという心の機能に対し、思い浮かべるという心の機能が存在するということにも気づくと思う。

この思い浮べる、ふと思い出す心の機能に対しては、まだよくわかっていない。またわかったら書きたいと思う。

僕はもうAppleを信じない。アップルパイ

またもう一つ悟ってしまったことがある。もう僕にAppleは必要ないということ。ジョブズ亡き後に発売している製品は全部ガラクタだということに気づいた。かつての企業精神、哲学のない物なんだと。

少なくとも僕は目覚めた。Appleという大きなフェイクに。それはもうジョブズが死んでからそうなんだということに。今頃気づいた。そして、改めてジョブズが死んでしまったことが悲しくてしかたがない。なんでかれは56歳にして死んでしまったのだろう。本人が一番悲しいだろう。これからが一番彼にとって楽しかった時だろうに...。

僕に何ができるだろうか?僕なりに考えてたことがある。それは今後もAppleの製品を買うことじゃない。ジョブズのやったことを自分に受け継ぎそれに正直になることである。Appleが今やってることは壮大な間違いなんだってことをいうことなんだと思う。ジョブズのやることを信じるなら今のAppleという会社を壊すことが正しいのかもしれない。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の断りを表す、勇きものも遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ、奢れるものも久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

大学に入学したとき、就活は絶対しないと心に決めていた。というのは、なぜスーツを着て説明会に行かなければいけないかわからなかったためだ。でも一回だけ所属学科の先輩がやってくれた説明会にスーツを着て行ってしまったのが未だに心残りである。

就活しないと決めていたことがあらゆる選択肢から自由にしてくれて、勉強に集中する環境を作ってくれた。そして卒業後は大学院に入学してしまった。

大学院のドクターコースに入学したのは、修士卒業時に博士後期に行くか、入れてくれそうないい感じの中小企業に就職するかの、どっちがおもしろいかを天秤にかけたときに、ドクターのほうが絶対おもしろいと直感で感じたからだ。この選択肢で間違っていなかったと確信している。

しかし、今分岐点が見えてきた。確かに論文制作は長期睡眠を必要とするが、達成感があるし、おもしろい。だが、その先を見たときに、これより面白いものがあると感じ始めた。近々そちらの方に冒険して見たいと思っている。